Friday, October 06, 2000

少年犯罪

14才だの17才だのと騒いでいるけど、おにぎりはコンビニで買うと思ってる世代に
社会的健全性を求める方が間違っている。
おにぎりを金で買うようになってから、世の中が何となくおかしくなった。

Friday, September 29, 2000

メディア再考

第4の権力なんて評されるメディア。ジャーナリズムの手段として語られた時の評であって、最近の情勢にはそぐわない表現だと思う。


じゃぁ、「最近の情勢ってなんだよ」って聞かれれば、それはミミタコなほどに陳腐化した
それ、「IT」ってやつ。知ってると思うけど、僕はITって言葉がきらい。ITを口にする人間
がきらい。ITをビジネス用語として使ってる連中に至っては論外。
ついこの間まで、「ITがビジネスを変える」だの、「ニューエコノミーへの脱却」なんて
言葉で煽っていた立場にいたけれど、それはタテマエ。口にすれば金になったからね、あの
業界はさ。

さて、なんでITがメディアかってことだけど、メディアの役割は「伝える」、「保持する」、
「検索する」に収斂していくわけで、その機能を実現する手段がITだから。
ここで気づくだろうけど、ITってのは、送信・受信双方の通信手段、蓄積手段、検索手段
のいづれかの「機能」を指すときに使われるべきであって、パソコンを使えることや日本中
に光ケーブルを敷きまくる「作業や状態」を指してはいけない。
このターミノロジーの違いがわかってない人が多すぎる。

マルチメディアって言葉が流行ったとき、僕はよく「マルチってことは多ですよ、メディアが
増えることなんです」と事あるごとに書いたり話していたけど、当時は「若造が」って一蹴
されていた。パソコンでなんでもできるという、デバイス集中がマルチだと思われていた時代。
最近は、企業の意志決定や経営判断に必要な手段として注目されているデータウェアハウス、
データマイニング、ナレッジマネジメントについて、「情報システムや経営手法というより、
メディアとして捉えないと失敗します」って言い続けている。「なかなか斬新な発想ですね」
と言われてばかりだけど。
しかし、伝える人間、受け取る人間、授受されるコンテンツの三者がそろえば、そこには必ず
メディアが存在する。しかも複数のメディアが存在する。それらの個々に存在するメディアを
どうするかが課題。

向かうべきはMI(メディアインテグレーション)。デバイスインテグレーションでも、データ
インテグレーションでも、チャネルインテグレーションでもない。
この動きは、見えている人間には見えている。別に新しいことではない。マクルーハンが
すでに全てを言い尽くしている。ただ、人間が遠回りしているだけのこと。
ポータルも一つの答えでしょう。携帯複合端末も答えになり得るでしょう。

金儲けに走るからいけないのかな、きっと。私利私欲は本筋をねじ曲げるから。

Sunday, September 24, 2000

ネクタイを外すということ

9/15付けで、僕は社会人を一休みしている。明日から大学院の授業が始まる。
先行はMBA
僕はすでに物理学の修士であり、仕事は経営コンサルティングなんてものを選んで、
それなりに活躍していた。だから、周りからは「なんでいまさら?」って意見が多
かった。僕なりに考えた結果なんだけど、なかなか理解してもらえないようだ。

5年半、毎朝締め続けたネクタイを外して感じたことは、開放感とプレッシャー。社会人
でいる間は、たとえどんなに殺人的なスケジュールで、どんなに無茶なテーマでも、
「クライアントのために」っていう大義名分があったから、責任感と義務感があった。
逆に言い訳にもできた。全てが契約で成り立つ状況からの開放感を第一に感じた。
ところが、だ。これからは手を抜くのも、没頭するのも、全て自分次第。それはすごい
プレッシャーに感じる。あらゆるチャンスが与えられ、それを活かすも殺すも自分次第
っていう大学のカルチャーはとても好きだけど、明日から通う大学は、今まで僕が
知っている大学とはちょっと違う。それもプレッシャー。

さて、明日からは人生のしきり直し。

Monday, September 11, 2000

愛国心と国粋主義

  オリンピックが近づくと、毎回、考えること。
「さぁ、今回日本はいくつのメダルが...」、「さすがアメリカ、強いですねぇ」なんて
思いっきり「国家」の視点で物事を語る。

国旗と国歌を法制定するときにあれだけ騒いでおきながら、オリンピックやワールド
カップでの国旗掲揚や国歌斉唱は何とも騒がなかったりする矛盾。
僕自身は、日本が好きだし、きっとこれからも住み続けるだろう。そういう意味での
愛国心は持っている。けど、僕は護憲派でも右翼でもないので、愛国心=ナショナリズム
の図式にはのらない。ただ単に生まれ育った国が好きだというただそれだけのこと。

けど、どうもオリンピック中の日本人や代表選手、五輪選手選考委員会は国粋主義に
陥ってるように思えてしょうがない。
純日本人のチームでなんてメンタリティだから、チーム監督を外国人でなく日本人にし
ようとか、そんなことにこだわるわけだ。日本の他に、自国民だけにこだわる国って
韓国と朝鮮ぐらいじゃないかな。もちろん、他の国も、選手は自国民であるけれど、
チームメンバー、サポートスタッフ、スポンサーとなればそれこそグローバルチームで
やっている。
多国籍の中での自国の意識というか、そういう意味での国家意識を感じる。

それともう一つ。海外の代表選手って、ほぼ全員が英語を話し、会見でも通訳なしで
受け答えている。金メダリストが英語で感謝の言葉やその時の気持ちをいうからより
多くの人間が共感できる。
でも、日本人の代表選手の場合は、必ず通訳付き。そもそも英語を話せる
人っているんだろうか。それって結局、世界を見て勝負してるかどうかってことの
あらわれだと思うんだよね。
英語である必要はなく、例えば、ツール・ド・フランスを狙うならフランス語に堪能
なことが望ましいだろうし、拳法を極めたいなら中国語かも知れない。
スポーツ選手に限らず、日本しか見えていない人間が多いのは問題だと思う。そのくせ
駅前留学とか言ってるわけだから、もはやパロディだな。

言語はパワーだ。世界を相手に戦うつもりなら、せめてまず同じ土俵に立て。その前に
入り口に通してもらえるだけの最低条件を満たせ。
それができない人間は、文化だの国民性だのを持ちだして逃げる。
戦いに行くのなら戦う準備をしよう。逃げる準備じゃなくてさ。

Friday, September 08, 2000

夢よ再びってことか?

本屋で立ち読みをしながら考えたこと。
最近の雑誌は、やたらと「上質」、「良質」、「こだわり」、「厳選」なんてキャッチコピーを使っているように思う。「IT」と同じくらい氾濫しているし薄っぺらな言葉だ。

 
しかも、Pen、M、Brioなんていういまだに80年代を捨てきれない雑誌が目に付く。おそらく、ターゲットの読者層は、30代前半の男性で、年収が1本の大台にのっているセグメントだろう。
一昔前の言葉で言えばヤンエグってところか。
たしかにこの年代層は、学生や新入社員のころにバブルの蜜につかり、消費癖が身に付いている。団塊ジュニア層とも重なり、最後の消費市場として注目され、各セクターや企業が必死で彼らの財布に手を伸ばしている。

マルクスは、消費の拡大が原動力の資本主義は恐慌から逃れられないことを理由に共産主義を唱えた。ケインズは政府の役割が需要を創出する立場を貫いた。今の日本では景気が悪いと言われながらも、個人消費は安定しているし、恐慌やインフレは政府が税金を持ち出して防ぐという状況で、マルキシズムでもケインジアンでも説明できない。
しかし、あいかわらず大衆社会での消費の垂れ流しは続いている。「えぇじゃないか」とか「大正ロマン」とかそのころの心理に近いんじゃないかな。

そうそう、もう一つ気になることが。
20~30年周期で流行はくりかえされるけど、最近のファッションは70~80年代への回帰だ。たしか、80年代の初頭、吉本隆明氏がコム・デ・ギャルソンを着てファッション誌に載った。そのころの繰り返しが今まさに起きつつあって、10代の女性の間でニュートラがリバイバルしている。丸ノ内OLの間では、ベージュ、濃紺が復活してきた。
あのころ、ニュートラの次に流行った物って、ワンレン・ボディコンだったなぁ。勘弁してよ、もう。

Thursday, September 07, 2000

単価値的思考

飛行機の窓から外を眺めていると、とんでもない山奥やだだっぴろい平野に忽然と街や集落
を見かけることがあるじゃない。そういうとき、僕はいつも、「どうやって生活してるんだ
ろ」とか「仕事とか学校ってどういてるのかな」なんてことを思ってしまう。
特に海外の砂漠のような景色の中にある街のことなんて、まったく生活が想像できない。

日本であれば、生活様式にそうそう大差はないはずで、同じようなものを食べて、同じ
テレビを見ている。それなのに、「よくこんな環境で」なんて思ってしまう。
結局、僕は自分が生まれ育った環境や習慣でしか物事を考えられなのではないだろうか。
それはそれでとても貧しい思考であり、ある種の差別意識が根底にあるのかもしれない。日本
では東京や大阪といった大都市があらゆるムーブメントの中心で、周辺地域はプチ東京だった
り、プチ大阪になりがちだ。
もっとも、東京はプチニューヨークかもしれないし、シドニーはプチロンドンかもしれない。
中心と周辺があるのは当たり前で、そこの差が地域性に現れるんだろうけど、中心の発想しか
もてない自分はちょっと貧しいし、傲慢ですらある。

三宅島からの緊急避難民の写真が新聞に掲載されたとき、避難民の人が東急ハンズの紙袋を
持っている姿が写されていた。
僕は「なんで三宅島で東急ハンズ?」と思ってしまったわけだ。三宅島にハンズがなくっても、
東京にでかけた時によったのかもしれないし、本州に住む親戚や知人からの宅急便に入ってい
たのかもしれない。三宅島にハンズの紙袋が上陸するルートなんてたくさんあるのに、その
写真をとても奇妙なものに感じてしまった。

ジプシーがロレックスをはめ、アボリジニがUCLAのロゴが入ったTシャツを着る時代、なのに
紋切り型の記号論的な解釈しかできない自分は、やばい。

Wednesday, September 06, 2000

短絡的思考

何気ないことなんだけど、この間、新鮮な驚きを感じたこがあって...。
この夏は、東京湾近くの運河沿いのオフィスにいた。モノレールと首都高がその運河と併走
しているんだけど、ある日、水位が下がって、運河の中に造られた橋桁がむきだしになって
いた。「水門でもあって流量調整してるのかな」とかもっともらしいことを考えたんだが、

  
なんのことはない、東京湾の潮の干満が運河の水位を変えているだけのことじゃないか。
当たり前のことなのに、このことにすごく驚いてしまった。
ちなみに、建物の窓から見下ろす運河の中に、魚の泳ぐ姿を見かけたときも驚いた。その時は
魚の生命力に驚いた。東京湾が魚が住める程度の水質を保っているのか、あるいは強靱な魚
なのか、どっちだろう。
当たり前のことに驚いたり感動するようになった僕は、いまだに無邪気なのか、あるいは殺伐
とした毎日を過ごしているのか、むむぅ、微妙だ。

Tuesday, August 15, 2000

lomo

lomoについて書く。リンクに「Photos」っていうコーナーがあるけれど、これはlomoってい
うロシア製のカメラで撮った写真。中には「モロ写真」と読み違えて、あらぬ期待をする人も
いるようだけど、それは間違い。

ちょうど去年の今頃、僕はlomoを手にした。別に写真が好きとか、そんな思い入れはなかった
んだけど、その思想というか、ムーブメントに惚れ込んでしまった。
世界各国にユーザーグループがいて、「ウォール」なんていう独特の展示をベースにイベント
をしたり、一度は製造中止の憂き目にあいながらもユーザーの支持で製造が復活したり...。
そんなことよりも、ロモユーザー(lomographerともいう)がいつも片手に、鞄の中にlomoを
入れている姿が印象的だ。
携帯電話やノートPCを「携帯メディア」なんて表現することがばからしく思えてしまう。
メディアの本質は記録することであり、伝達ではない。伝達は記録や保存の後工程に過ぎない。
そういう意味でもカメラはメディアの役割を全うしている。

80年代後半から90年代前半のMacintoshのムーブメントに似た雰囲気にも惹かれるのかもしれ
ない。ユーザー主導、愛着、アナログ感、そんなキーワードはMacに似ている。
lomoもそこそこ人気がでてきて、雑誌、新聞、テレビの各メディアへの露出度も高くなった。
規模が拡大すると、ムーブメントのベクトルが発散し、勘違いした連中が増えるのも否めない
のだが、いまのところその心配は杞憂に終わっている。
ただ、危惧すべきは、似非lomoの登場ではないか。他のカメラメーカーがこの市場に乗り込
んできた時が心配でしょうがない。
Win95がMacに対して実行したマーケ手法が繰り返されることだけは我慢ならない。

そして今日も手のひらサイズのlomoを持ち歩いている
そうそう、女優ののT.Tさんもlomoを持っているらしい

Sunday, August 06, 2000

ずっと前から

縄文時代の高度な文明が見直されたり、与那国島沖の海中に古代文明の遺跡と思われる石造り
の物体が発見されたり、いわゆる四大文明より古い文明が脚光を浴びている。
考古学者の多くは、四大文明より以前に文明が存在した可能性は認めつつも、遺跡や証拠が得
られない限りは否定する立場をとっている。まぁ、考古学で飯を食っている人にとっては死活
問題なわけで、慎重にもなるわけだ。


僕も考古学は好きだ。天体運動とか、遺跡とか、ロマンを感じるし、中学生のころエジプト、
ローマ、ギリシャに行ったときは感動した。
縄文人は海洋民族で太平洋を自由に行き来していた、なんて説も本当であってほしい。ハン
コックの神々の指紋にも読みふけった。

僕の知る限り、あらゆる国家、民族、文明に共通することがあって、それは踊りと歌。この2
つが存在しない集合体は見あたらない。
何で人は踊るのか、なぜ歌うのか。雨乞いから収穫の喜び、死、生、別れ、出会い、何につけ
ても踊り、歌う。
人が歌うときや踊るときの脳波の変化とか分泌物資の成分とか、そんなものから科学的な根拠
が見いだせるかもしれないけれど、そもそもそれらの生理現象がなぜ起きるのかの説明には
ならず、根本的な解決ではないわけで...。

僕なりの回答は、人間がもっとも頻繁に使うメディアである言葉と文字、この2つが意外に
表現力の乏しい手段なのではないかということ。
乏しいが故に補完剤や触媒を求め、それが身振り手振り、抑揚につながるのではと思う。
ロゴスよりパトスであって、パロールになるのではないかと思っている。
インターネットが急激に広まって、電子メディアが蔓延すると読み書きの能力が低下するな
んて危惧もあったけれど、その危惧は杞憂に終わり、電子メールや掲示板に代表されるように
膨大な量の読み書きが発生している。
今僕が危惧していることは、表現力の乏しい文字と言葉に重きが置かれ、表現しながら相手に
伝えることができる人が少なくなっているのではないかということ。

魅力的な人が知り合いにいますか?自分をありのままに表現できていますか?
文字にたよって、読み手の解釈に任せていませんか?
言葉に頼って後から「それは誤解だよ」なんて言い訳をしていませんか?

Sunday, July 30, 2000

土曜丑の日。近所にあるウナギの名店に行ってみた。やはり混雑していて、入れるかどうか
心配だったけど、無事にありつくことができた。

なるほど、名店だけあって味はしっかりしているし、店構えや店内の雰囲気も申し分なし。
カウンター越しに調理場を見ながら食べていたんだけど、味や店の風合いに似合わぬ点が一点。
ラストオーダーも終わり調理場の手が空き始めると、とたんに調理場の後かたづけが始まる。
カウンターの周りや座敷ではまだ何人もの人が食べているというのに。
せめて客がもう少し帰ってから片づけるのが美意識かと思うのだが....。
あれでは店員の「お、閉店の時間だ、とっとと片づけて帰るか」って雇われ意識にしか見えないよ。

その数日前、大学時代からの友達が馴染みにしている新橋のバーへ行った。彼とも早10年のつき合いだ。
そして、このバーは僕のお酒に対する意識を根底から覆してくれた。
置いてある酒の多さならもっとバーはいくらでもあるだろう。内装に
金をかけたいかにもそれっぽいバーはいくらでもある。しかし、1952年からつづくその
バーは、ただただ、約50年間、酒を注ぎ続けた、そんな店。
ご主人が高齢のためか、23:15にはラストオーダーになってしまうのだが、23:15になると、
さりげなくカウンターの中にかけられて金をカランカランとならす。23:30の閉店が近づくと、
ご主人とバーテンの2人が軽くビールをつぎあい、奥様は客に「お気をつけて」と声をかける。
当たり前のことを平然とやってのけるその度量。ご主人の人格か。
「星さん、騙されたと思ってモスコミュールを頼んでみてください」その言葉をそのまま
バーテンに投げかける。目の前に出されたモスコミュールは、まさに僕の知るモスコとは
似ても似つかぬ代物だった。銅のマグカップにクラッシュアイス。控えめなお酒に本物のジンジャーエール。
参りました。

早速、家に帰ってから、彼女とそんな話をした。「すごいよ、本物のモスコミュール飲んじゃった」というと、
「マグに入ったのでしょ?おいしかった?」とサラリとかわされる。いやはや、あいつもなかなかあなどれない。

Sunday, July 23, 2000

移動と交通

旧東海道を見つけた。道路標識に旧東海道と書かれているんだけど、「見つけた」って
表現がぴったりなほど目立たない。
道幅も狭く、一方通行の車道になっている。その昔、いや意外と最近まで日本の交易や
人の移動の大動脈だった面影はもはやない。

太古から、人の移動が文明や都市を造ってきた。シルクロードなんかは、人の移動がそのまま道になって、商流になった。
経済学は交通の概念を織り込みながら語られているし、そもそも交通には、コミュニケーションの意味も含まれている。交通はメディア的な要素も兼ね備えているわけだ。
「夜明け前」なんて、まさに「木曽路は山の中」ではじまり、交通の概念が全面に押し出されているように思う。

人は何で動くのか。2つの「動く」が枠組みとして考えられる。移動と動機の2つ。
物理的な移動は、それこそ、肥沃な土地を求めたり災害からの脱出といった原始的なものから、新大陸への挑戦のようなロマンまで含まれる。この移動は、ある目的に対し、それを実現するための手段として存在している。
一方、動機となるとちょいとやっかいだ。人間を行動にかきたてる動機の正体は何だろうか。欲求、満足感、好奇心、義務感、それらは動機の一要素ではある。マズローの欲求階層では、生存に関する欲求から社会的な帰属意識まで分類されているけれど、そんな簡単なモデルで人間の行動が説明付くとは思えない。
人間はなんで努力するんだろう。何のために寝不足になってまで打ち込むことがあるんだろう。

旧東海道を横切る僕の足取りは、毎朝とても重い。
何が足りないのか、何かが重すぎるのか、毎朝そんなことを考えてしまう。

前向きに進んでいますか?目標に近づくために、動いてますか?

Tuesday, July 18, 2000

何型人間?

幅広い知識と専門的な知識を兼ね備えたT型人間、Tほど深くないけど2つの分野に強いπ型人間。ことビジネスの世界では、人間についてのいろんな形容詞がある。
「円い人間は流されるだけ、これからは尖った人間になれ」なんて吐き捨てる人さえいる。これはこれでこまったものだ。

ここ数年、新入社員の採用活動の手助けをすることが多く、何人もの学生と話をする機会が多かった。
「一人前のコンサルタントをめざし、スペシャリストになります」とか「経営センスを身につけたジェネラリストになります」なんて言い放つ学生の多さには、何かこう、空恐ろしいものをかんじる。
そんなことをいう奴に限って、マニュアル君だったりする。マニュアル本に書いてあったことをそのまま受け売りにしたり、無批判で何の判断もしないタイプが多い。
だいたい、スペシャリストとか、ジェネラリストなんて言葉、いつから流行ってしまったんだろう。
しかもその言葉が、本来の意味から離れて、それぞれ、尖った人、丸い人と解釈されがちだ。

さて、人間がこんなにもたくさんいる以上、何らかのセグメント化は可能だろう。けど、セグメンテーションやクラスタリングになんの意味があるのか。後付で理由を押しつけた名前になんの意味があるんだろう。

よくいうじゃないか、「あいつも最近大人になったな、角が取れてきた」なんてね。

Sunday, July 16, 2000

まいった。

いや、ほんとにまいった、というかやられたって感じかな。何かっていうと、プレステの最近の「あそぼー。」ってキャッチコピー。すごく好き。
遊ぶってなんなんだろうな。子供の頃って、毎日が遊びだったかも知れない。学校の授業ですら遊びだった記憶がある。それなりの年齢になってくると、「あそび」って言葉にちょっとおかしな意味が含まれてくる。

「最近、遊んでる?」って聞かれたらなんて答えるかな。きっとまず、「僕にとって遊びってなんだ?」って思って、何も思いつかずに「それなりにね」なんてそれっぽく含みを持たせて答えるんだろうな。
子供の頃に夢中になっていたことがその人にとっての遊びで、ストレスを解消するための手段だと聞いたことがある。
たしかに一理あるかも知れない。

さて、子供の頃夢中だったことって何だったろう。

Friday, July 14, 2000

綾波レイではないけれど

ここ数日、東京湾の近くで働いている。首都高羽田線と運河沿い。レインボーブリッジや、羽田に着陸する飛行機が見えるところ。
思い起こすと、水辺で働くことが多かったな。住吉というところでも運河の横で、砂利運搬船をよく見ていた。勝鬨、弁慶橋、竹橋と、海の近くや江戸城のお堀沿いには縁がある。

神谷町、虎ノ門と、東京タワーが間近に見える所にもよく出向いた。季節や時間ごとにライトアップの色が変わる東京タワーは格別にきれいに見える。
東京に生まれ育っているから、町並みの変化は記憶として持っている。「このビルが建つ前は商店街だった」、「20年前はここから富士山が見えた」、そんなことを思い出す場所がいくつもある。

まだ30年しか生きていないけど、人間は生きている限り環境の変化に晒されるわけで、常に環境に順応していくことは意外とつらい。
生活環境、食環境、人間関係、流行、そういったものに、人間は自分を合わせて生きている。高倉健ではないが、「不器用ですから」なんて言ってる場合じゃないこともある。

気分転換するとき、考え事をするとき、気分を害したとき、僕は空を見上げる。どんなにビルが建とうと、広告が増えようと、青くて赤い空はかわらない。
子供のころ家の近所で夕方に見上げた空、海外で見上げた空、雨上がりの空、星空、僕の記憶の限り、変わっていない。
空を見上げると必ず思うことがあって、「同じような雲を、きっと何万年も前の人間も見たかもな」とか「縄文時代の人も夕焼けを綺麗だと感じたかな」とかね。
そんなことを考えると、なんとなくロマンを感じるし、素直に感動できたりする。

小津の映画に、「変わらないことが一番新しい」そんな台詞もあったっけ。

Tuesday, July 11, 2000

始めました

星です。
なんて自己紹介する理由は何もないんだけど、最近、「星さんって何者?」と聞かれることが増えました。

別にここで履歴書を披露したり、アイドルみたいにプロフィールを書くつもりはないけれど、僕が思ったこと、感じたこと、楽しかったこと、つまんなかったこと、そんなことを備忘録として書いていこうかと思います。
つまり、テキストベースのタイムマシン。

この短文は「時には正論」と銘打ちました。仕事柄、曲がった物も真っ直ぐと言い張る必要があって、嫌気がさすこともあります。世の中の動向や流行を煽って、マッチポンプになることもあります。
そんな状況に嫌気がさし、ここでは、利害関係、人間関係、そんなものを持ち込まない正論を吐き出していきます。

今夜は初めてなので、ちょっと感心した諺を書いて終わりにします。というか寝ます。

中国の古い諺で、
一年の繁栄を求めるなら穀物を育てなさい
十年の繁栄を求めるなら気を育てなさい
百年の繁栄を求めるなら人を育てなさい

その通り。とても感心する言葉。次回のテーマは感動にしてみよう。