Wednesday, June 22, 2005

堀江にはビタイチ払いたくない

このブログの、October 22, 2001のエントリで書いた「ブロバン社会」を読み直した。読み直しておきたいニュースを目にしたので。


僕が当時夢見た、願っていたことがどうやら叶いそうだ。電話線や電力線を使った高速公衆無線LAN。けれど、両手をあげて喜べない。運営母体がライブドアなんだよね。
http://wifi.livedoor.com/
きらいな会社が僕が求めていたサービスを始める。なんだかとても微妙なかんじ。
便利だからきっと利用すると思う。けど、きらいな会社に毎月500円程度を払う。なんだかイヤだ。

フジテレビとのゴタゴタを見ていたときから、ライブドアは「とりあえず一回のつもりで口説いた女の部屋にいきなり親がやってきて、あせって本気でつきあってますと言ってしまったアホ」と思っているので....。

他の事業体、同じサービスを始めてくれ。頼む。国が始めてもいい。電波事業で叩かれている総務省、出番だ。どこへいった?e-Japan。

頼むよ、まじで。

Monday, June 06, 2005

日経雑誌の口癖「・・・、である」

「ところが、である。」
「しかし、である。」
「そこで、である。」....。

日経新聞社が刊行する雑誌でよく見かけるようになった言い回しだ。

これらは段落の冒頭に突然あらわれる。最近の例だと、「それにしても、である」なんて新型が日経ビジネスでのコラムに登場している。メルマガにも転用されているので、引用して実際の使われ方を見てもらおう。

---引用開始------------------------------------
債券先物市場の参加者はほとんど機関投資家。すると
「週の初めに今週は買いかどうかを会社の会議で決める。
ただし、その方針決定後にすぐに買って値下がりでもし
ようものなら『軽率だ』となる」。
「だからじっくり待つのだが、結局買えなくて木曜日か
金曜日の後場に集中してしまう。でも、それなら、たとえ
相場が下がっても『慎重に状況を見て判断した結果』とい
うことになるから責任を問われない…」

え? と思うような思惑の結果が、この珍現象だというの
である。

それにしても、である。これが分かっていれば勝つこと、
いとたやすいではないか。

ここで改めて債券先物の基本から説明すると…債券先物取引
とは、将来の一定期日に、現時点で取り決めた価格で取引す
ることを約束する契約のことである。
---引用終了------------------------------------

こんな使われ方をしている。論点や論調がかわることや、読み手の注意を喚起する書き方だと理解できる。読み手はたしかに「ハッ」とするので、功を奏しているといえる。
しかし、である。このような直接的なキャッチーな手法に頼ることなく、明確な段落構成、鮮やかな起承転結で読み手を引き込み、かつ端的にメッセージを伝えるのが文屋の腕の見せ所ではなかったか。

どうも、セリフをまるごとテロップにするテレビのバラエティ番組のように見えて、好きになれない。週刊ポストや週刊現代ならまだしも、日経のビジネス系雑誌でこれってどうよ。
日経本誌が渡辺淳一氏の「愛の流刑地」とか連載しちゃうぐらいだからなぁ、なにか違うぞ、日経。

ところが、である。書き手にだけ一方的に責任があるかのようにとらえるのはいかがなものか。読み手の読解力が低下したり、流し読みで読んだつもりになってはいないだろうか。記者側の「巧みな文章を書いても読者に伝わらない、ならばわかりやすく目印をつけてあげよう」との試みであれば、我々読者にも非がある。「伝える喜び、伝わる喜び」、コミュニケーションにはこれが必要だ。