Friday, September 29, 2000

メディア再考

第4の権力なんて評されるメディア。ジャーナリズムの手段として語られた時の評であって、最近の情勢にはそぐわない表現だと思う。


じゃぁ、「最近の情勢ってなんだよ」って聞かれれば、それはミミタコなほどに陳腐化した
それ、「IT」ってやつ。知ってると思うけど、僕はITって言葉がきらい。ITを口にする人間
がきらい。ITをビジネス用語として使ってる連中に至っては論外。
ついこの間まで、「ITがビジネスを変える」だの、「ニューエコノミーへの脱却」なんて
言葉で煽っていた立場にいたけれど、それはタテマエ。口にすれば金になったからね、あの
業界はさ。

さて、なんでITがメディアかってことだけど、メディアの役割は「伝える」、「保持する」、
「検索する」に収斂していくわけで、その機能を実現する手段がITだから。
ここで気づくだろうけど、ITってのは、送信・受信双方の通信手段、蓄積手段、検索手段
のいづれかの「機能」を指すときに使われるべきであって、パソコンを使えることや日本中
に光ケーブルを敷きまくる「作業や状態」を指してはいけない。
このターミノロジーの違いがわかってない人が多すぎる。

マルチメディアって言葉が流行ったとき、僕はよく「マルチってことは多ですよ、メディアが
増えることなんです」と事あるごとに書いたり話していたけど、当時は「若造が」って一蹴
されていた。パソコンでなんでもできるという、デバイス集中がマルチだと思われていた時代。
最近は、企業の意志決定や経営判断に必要な手段として注目されているデータウェアハウス、
データマイニング、ナレッジマネジメントについて、「情報システムや経営手法というより、
メディアとして捉えないと失敗します」って言い続けている。「なかなか斬新な発想ですね」
と言われてばかりだけど。
しかし、伝える人間、受け取る人間、授受されるコンテンツの三者がそろえば、そこには必ず
メディアが存在する。しかも複数のメディアが存在する。それらの個々に存在するメディアを
どうするかが課題。

向かうべきはMI(メディアインテグレーション)。デバイスインテグレーションでも、データ
インテグレーションでも、チャネルインテグレーションでもない。
この動きは、見えている人間には見えている。別に新しいことではない。マクルーハンが
すでに全てを言い尽くしている。ただ、人間が遠回りしているだけのこと。
ポータルも一つの答えでしょう。携帯複合端末も答えになり得るでしょう。

金儲けに走るからいけないのかな、きっと。私利私欲は本筋をねじ曲げるから。

Sunday, September 24, 2000

ネクタイを外すということ

9/15付けで、僕は社会人を一休みしている。明日から大学院の授業が始まる。
先行はMBA
僕はすでに物理学の修士であり、仕事は経営コンサルティングなんてものを選んで、
それなりに活躍していた。だから、周りからは「なんでいまさら?」って意見が多
かった。僕なりに考えた結果なんだけど、なかなか理解してもらえないようだ。

5年半、毎朝締め続けたネクタイを外して感じたことは、開放感とプレッシャー。社会人
でいる間は、たとえどんなに殺人的なスケジュールで、どんなに無茶なテーマでも、
「クライアントのために」っていう大義名分があったから、責任感と義務感があった。
逆に言い訳にもできた。全てが契約で成り立つ状況からの開放感を第一に感じた。
ところが、だ。これからは手を抜くのも、没頭するのも、全て自分次第。それはすごい
プレッシャーに感じる。あらゆるチャンスが与えられ、それを活かすも殺すも自分次第
っていう大学のカルチャーはとても好きだけど、明日から通う大学は、今まで僕が
知っている大学とはちょっと違う。それもプレッシャー。

さて、明日からは人生のしきり直し。

Monday, September 11, 2000

愛国心と国粋主義

  オリンピックが近づくと、毎回、考えること。
「さぁ、今回日本はいくつのメダルが...」、「さすがアメリカ、強いですねぇ」なんて
思いっきり「国家」の視点で物事を語る。

国旗と国歌を法制定するときにあれだけ騒いでおきながら、オリンピックやワールド
カップでの国旗掲揚や国歌斉唱は何とも騒がなかったりする矛盾。
僕自身は、日本が好きだし、きっとこれからも住み続けるだろう。そういう意味での
愛国心は持っている。けど、僕は護憲派でも右翼でもないので、愛国心=ナショナリズム
の図式にはのらない。ただ単に生まれ育った国が好きだというただそれだけのこと。

けど、どうもオリンピック中の日本人や代表選手、五輪選手選考委員会は国粋主義に
陥ってるように思えてしょうがない。
純日本人のチームでなんてメンタリティだから、チーム監督を外国人でなく日本人にし
ようとか、そんなことにこだわるわけだ。日本の他に、自国民だけにこだわる国って
韓国と朝鮮ぐらいじゃないかな。もちろん、他の国も、選手は自国民であるけれど、
チームメンバー、サポートスタッフ、スポンサーとなればそれこそグローバルチームで
やっている。
多国籍の中での自国の意識というか、そういう意味での国家意識を感じる。

それともう一つ。海外の代表選手って、ほぼ全員が英語を話し、会見でも通訳なしで
受け答えている。金メダリストが英語で感謝の言葉やその時の気持ちをいうからより
多くの人間が共感できる。
でも、日本人の代表選手の場合は、必ず通訳付き。そもそも英語を話せる
人っているんだろうか。それって結局、世界を見て勝負してるかどうかってことの
あらわれだと思うんだよね。
英語である必要はなく、例えば、ツール・ド・フランスを狙うならフランス語に堪能
なことが望ましいだろうし、拳法を極めたいなら中国語かも知れない。
スポーツ選手に限らず、日本しか見えていない人間が多いのは問題だと思う。そのくせ
駅前留学とか言ってるわけだから、もはやパロディだな。

言語はパワーだ。世界を相手に戦うつもりなら、せめてまず同じ土俵に立て。その前に
入り口に通してもらえるだけの最低条件を満たせ。
それができない人間は、文化だの国民性だのを持ちだして逃げる。
戦いに行くのなら戦う準備をしよう。逃げる準備じゃなくてさ。

Friday, September 08, 2000

夢よ再びってことか?

本屋で立ち読みをしながら考えたこと。
最近の雑誌は、やたらと「上質」、「良質」、「こだわり」、「厳選」なんてキャッチコピーを使っているように思う。「IT」と同じくらい氾濫しているし薄っぺらな言葉だ。

 
しかも、Pen、M、Brioなんていういまだに80年代を捨てきれない雑誌が目に付く。おそらく、ターゲットの読者層は、30代前半の男性で、年収が1本の大台にのっているセグメントだろう。
一昔前の言葉で言えばヤンエグってところか。
たしかにこの年代層は、学生や新入社員のころにバブルの蜜につかり、消費癖が身に付いている。団塊ジュニア層とも重なり、最後の消費市場として注目され、各セクターや企業が必死で彼らの財布に手を伸ばしている。

マルクスは、消費の拡大が原動力の資本主義は恐慌から逃れられないことを理由に共産主義を唱えた。ケインズは政府の役割が需要を創出する立場を貫いた。今の日本では景気が悪いと言われながらも、個人消費は安定しているし、恐慌やインフレは政府が税金を持ち出して防ぐという状況で、マルキシズムでもケインジアンでも説明できない。
しかし、あいかわらず大衆社会での消費の垂れ流しは続いている。「えぇじゃないか」とか「大正ロマン」とかそのころの心理に近いんじゃないかな。

そうそう、もう一つ気になることが。
20~30年周期で流行はくりかえされるけど、最近のファッションは70~80年代への回帰だ。たしか、80年代の初頭、吉本隆明氏がコム・デ・ギャルソンを着てファッション誌に載った。そのころの繰り返しが今まさに起きつつあって、10代の女性の間でニュートラがリバイバルしている。丸ノ内OLの間では、ベージュ、濃紺が復活してきた。
あのころ、ニュートラの次に流行った物って、ワンレン・ボディコンだったなぁ。勘弁してよ、もう。

Thursday, September 07, 2000

単価値的思考

飛行機の窓から外を眺めていると、とんでもない山奥やだだっぴろい平野に忽然と街や集落
を見かけることがあるじゃない。そういうとき、僕はいつも、「どうやって生活してるんだ
ろ」とか「仕事とか学校ってどういてるのかな」なんてことを思ってしまう。
特に海外の砂漠のような景色の中にある街のことなんて、まったく生活が想像できない。

日本であれば、生活様式にそうそう大差はないはずで、同じようなものを食べて、同じ
テレビを見ている。それなのに、「よくこんな環境で」なんて思ってしまう。
結局、僕は自分が生まれ育った環境や習慣でしか物事を考えられなのではないだろうか。
それはそれでとても貧しい思考であり、ある種の差別意識が根底にあるのかもしれない。日本
では東京や大阪といった大都市があらゆるムーブメントの中心で、周辺地域はプチ東京だった
り、プチ大阪になりがちだ。
もっとも、東京はプチニューヨークかもしれないし、シドニーはプチロンドンかもしれない。
中心と周辺があるのは当たり前で、そこの差が地域性に現れるんだろうけど、中心の発想しか
もてない自分はちょっと貧しいし、傲慢ですらある。

三宅島からの緊急避難民の写真が新聞に掲載されたとき、避難民の人が東急ハンズの紙袋を
持っている姿が写されていた。
僕は「なんで三宅島で東急ハンズ?」と思ってしまったわけだ。三宅島にハンズがなくっても、
東京にでかけた時によったのかもしれないし、本州に住む親戚や知人からの宅急便に入ってい
たのかもしれない。三宅島にハンズの紙袋が上陸するルートなんてたくさんあるのに、その
写真をとても奇妙なものに感じてしまった。

ジプシーがロレックスをはめ、アボリジニがUCLAのロゴが入ったTシャツを着る時代、なのに
紋切り型の記号論的な解釈しかできない自分は、やばい。

Wednesday, September 06, 2000

短絡的思考

何気ないことなんだけど、この間、新鮮な驚きを感じたこがあって...。
この夏は、東京湾近くの運河沿いのオフィスにいた。モノレールと首都高がその運河と併走
しているんだけど、ある日、水位が下がって、運河の中に造られた橋桁がむきだしになって
いた。「水門でもあって流量調整してるのかな」とかもっともらしいことを考えたんだが、

  
なんのことはない、東京湾の潮の干満が運河の水位を変えているだけのことじゃないか。
当たり前のことなのに、このことにすごく驚いてしまった。
ちなみに、建物の窓から見下ろす運河の中に、魚の泳ぐ姿を見かけたときも驚いた。その時は
魚の生命力に驚いた。東京湾が魚が住める程度の水質を保っているのか、あるいは強靱な魚
なのか、どっちだろう。
当たり前のことに驚いたり感動するようになった僕は、いまだに無邪気なのか、あるいは殺伐
とした毎日を過ごしているのか、むむぅ、微妙だ。