Sunday, July 30, 2000

土曜丑の日。近所にあるウナギの名店に行ってみた。やはり混雑していて、入れるかどうか
心配だったけど、無事にありつくことができた。

なるほど、名店だけあって味はしっかりしているし、店構えや店内の雰囲気も申し分なし。
カウンター越しに調理場を見ながら食べていたんだけど、味や店の風合いに似合わぬ点が一点。
ラストオーダーも終わり調理場の手が空き始めると、とたんに調理場の後かたづけが始まる。
カウンターの周りや座敷ではまだ何人もの人が食べているというのに。
せめて客がもう少し帰ってから片づけるのが美意識かと思うのだが....。
あれでは店員の「お、閉店の時間だ、とっとと片づけて帰るか」って雇われ意識にしか見えないよ。

その数日前、大学時代からの友達が馴染みにしている新橋のバーへ行った。彼とも早10年のつき合いだ。
そして、このバーは僕のお酒に対する意識を根底から覆してくれた。
置いてある酒の多さならもっとバーはいくらでもあるだろう。内装に
金をかけたいかにもそれっぽいバーはいくらでもある。しかし、1952年からつづくその
バーは、ただただ、約50年間、酒を注ぎ続けた、そんな店。
ご主人が高齢のためか、23:15にはラストオーダーになってしまうのだが、23:15になると、
さりげなくカウンターの中にかけられて金をカランカランとならす。23:30の閉店が近づくと、
ご主人とバーテンの2人が軽くビールをつぎあい、奥様は客に「お気をつけて」と声をかける。
当たり前のことを平然とやってのけるその度量。ご主人の人格か。
「星さん、騙されたと思ってモスコミュールを頼んでみてください」その言葉をそのまま
バーテンに投げかける。目の前に出されたモスコミュールは、まさに僕の知るモスコとは
似ても似つかぬ代物だった。銅のマグカップにクラッシュアイス。控えめなお酒に本物のジンジャーエール。
参りました。

早速、家に帰ってから、彼女とそんな話をした。「すごいよ、本物のモスコミュール飲んじゃった」というと、
「マグに入ったのでしょ?おいしかった?」とサラリとかわされる。いやはや、あいつもなかなかあなどれない。

Sunday, July 23, 2000

移動と交通

旧東海道を見つけた。道路標識に旧東海道と書かれているんだけど、「見つけた」って
表現がぴったりなほど目立たない。
道幅も狭く、一方通行の車道になっている。その昔、いや意外と最近まで日本の交易や
人の移動の大動脈だった面影はもはやない。

太古から、人の移動が文明や都市を造ってきた。シルクロードなんかは、人の移動がそのまま道になって、商流になった。
経済学は交通の概念を織り込みながら語られているし、そもそも交通には、コミュニケーションの意味も含まれている。交通はメディア的な要素も兼ね備えているわけだ。
「夜明け前」なんて、まさに「木曽路は山の中」ではじまり、交通の概念が全面に押し出されているように思う。

人は何で動くのか。2つの「動く」が枠組みとして考えられる。移動と動機の2つ。
物理的な移動は、それこそ、肥沃な土地を求めたり災害からの脱出といった原始的なものから、新大陸への挑戦のようなロマンまで含まれる。この移動は、ある目的に対し、それを実現するための手段として存在している。
一方、動機となるとちょいとやっかいだ。人間を行動にかきたてる動機の正体は何だろうか。欲求、満足感、好奇心、義務感、それらは動機の一要素ではある。マズローの欲求階層では、生存に関する欲求から社会的な帰属意識まで分類されているけれど、そんな簡単なモデルで人間の行動が説明付くとは思えない。
人間はなんで努力するんだろう。何のために寝不足になってまで打ち込むことがあるんだろう。

旧東海道を横切る僕の足取りは、毎朝とても重い。
何が足りないのか、何かが重すぎるのか、毎朝そんなことを考えてしまう。

前向きに進んでいますか?目標に近づくために、動いてますか?

Tuesday, July 18, 2000

何型人間?

幅広い知識と専門的な知識を兼ね備えたT型人間、Tほど深くないけど2つの分野に強いπ型人間。ことビジネスの世界では、人間についてのいろんな形容詞がある。
「円い人間は流されるだけ、これからは尖った人間になれ」なんて吐き捨てる人さえいる。これはこれでこまったものだ。

ここ数年、新入社員の採用活動の手助けをすることが多く、何人もの学生と話をする機会が多かった。
「一人前のコンサルタントをめざし、スペシャリストになります」とか「経営センスを身につけたジェネラリストになります」なんて言い放つ学生の多さには、何かこう、空恐ろしいものをかんじる。
そんなことをいう奴に限って、マニュアル君だったりする。マニュアル本に書いてあったことをそのまま受け売りにしたり、無批判で何の判断もしないタイプが多い。
だいたい、スペシャリストとか、ジェネラリストなんて言葉、いつから流行ってしまったんだろう。
しかもその言葉が、本来の意味から離れて、それぞれ、尖った人、丸い人と解釈されがちだ。

さて、人間がこんなにもたくさんいる以上、何らかのセグメント化は可能だろう。けど、セグメンテーションやクラスタリングになんの意味があるのか。後付で理由を押しつけた名前になんの意味があるんだろう。

よくいうじゃないか、「あいつも最近大人になったな、角が取れてきた」なんてね。

Sunday, July 16, 2000

まいった。

いや、ほんとにまいった、というかやられたって感じかな。何かっていうと、プレステの最近の「あそぼー。」ってキャッチコピー。すごく好き。
遊ぶってなんなんだろうな。子供の頃って、毎日が遊びだったかも知れない。学校の授業ですら遊びだった記憶がある。それなりの年齢になってくると、「あそび」って言葉にちょっとおかしな意味が含まれてくる。

「最近、遊んでる?」って聞かれたらなんて答えるかな。きっとまず、「僕にとって遊びってなんだ?」って思って、何も思いつかずに「それなりにね」なんてそれっぽく含みを持たせて答えるんだろうな。
子供の頃に夢中になっていたことがその人にとっての遊びで、ストレスを解消するための手段だと聞いたことがある。
たしかに一理あるかも知れない。

さて、子供の頃夢中だったことって何だったろう。

Friday, July 14, 2000

綾波レイではないけれど

ここ数日、東京湾の近くで働いている。首都高羽田線と運河沿い。レインボーブリッジや、羽田に着陸する飛行機が見えるところ。
思い起こすと、水辺で働くことが多かったな。住吉というところでも運河の横で、砂利運搬船をよく見ていた。勝鬨、弁慶橋、竹橋と、海の近くや江戸城のお堀沿いには縁がある。

神谷町、虎ノ門と、東京タワーが間近に見える所にもよく出向いた。季節や時間ごとにライトアップの色が変わる東京タワーは格別にきれいに見える。
東京に生まれ育っているから、町並みの変化は記憶として持っている。「このビルが建つ前は商店街だった」、「20年前はここから富士山が見えた」、そんなことを思い出す場所がいくつもある。

まだ30年しか生きていないけど、人間は生きている限り環境の変化に晒されるわけで、常に環境に順応していくことは意外とつらい。
生活環境、食環境、人間関係、流行、そういったものに、人間は自分を合わせて生きている。高倉健ではないが、「不器用ですから」なんて言ってる場合じゃないこともある。

気分転換するとき、考え事をするとき、気分を害したとき、僕は空を見上げる。どんなにビルが建とうと、広告が増えようと、青くて赤い空はかわらない。
子供のころ家の近所で夕方に見上げた空、海外で見上げた空、雨上がりの空、星空、僕の記憶の限り、変わっていない。
空を見上げると必ず思うことがあって、「同じような雲を、きっと何万年も前の人間も見たかもな」とか「縄文時代の人も夕焼けを綺麗だと感じたかな」とかね。
そんなことを考えると、なんとなくロマンを感じるし、素直に感動できたりする。

小津の映画に、「変わらないことが一番新しい」そんな台詞もあったっけ。

Tuesday, July 11, 2000

始めました

星です。
なんて自己紹介する理由は何もないんだけど、最近、「星さんって何者?」と聞かれることが増えました。

別にここで履歴書を披露したり、アイドルみたいにプロフィールを書くつもりはないけれど、僕が思ったこと、感じたこと、楽しかったこと、つまんなかったこと、そんなことを備忘録として書いていこうかと思います。
つまり、テキストベースのタイムマシン。

この短文は「時には正論」と銘打ちました。仕事柄、曲がった物も真っ直ぐと言い張る必要があって、嫌気がさすこともあります。世の中の動向や流行を煽って、マッチポンプになることもあります。
そんな状況に嫌気がさし、ここでは、利害関係、人間関係、そんなものを持ち込まない正論を吐き出していきます。

今夜は初めてなので、ちょっと感心した諺を書いて終わりにします。というか寝ます。

中国の古い諺で、
一年の繁栄を求めるなら穀物を育てなさい
十年の繁栄を求めるなら気を育てなさい
百年の繁栄を求めるなら人を育てなさい

その通り。とても感心する言葉。次回のテーマは感動にしてみよう。