Wednesday, October 24, 2001

適材適所

どうも、気になり始めたことがある。
最近の日本の学生や会社員の多くが、ノートPCが入ったカバンを
もって、PCを持ち歩いている。これって異様な光景だと思うよう
になった。
スーツ姿にショルダーバッグ。スーツはヨレヨレになって、小さ
いPCの小さいキーボードで肩こり。これは健全とは言えない。少
なくとも僕はイヤだな。

というのも、最近の生活では、広い机にデスクトップPCが置かれ、
当然、フルピッチのキーボード。机と椅子の快適さも手伝って、
肩こりなんて全くなし。聞いてみると、こちらでは、家でもデス
クトップを使っている人が多いようだ(注:スイス滞在中に記述)。
そんな環境にいるので、余計に感じるようになったのだと思う。

外国人は比較的指が太いからデスクトップなんだなんて観察は
もはや説得力がない。手のひらサイズのパームパイロットはア
メリカからの製品だ。
もっとも、日本は会社の机も、家も狭いから、省スペースを理由
にノートPCの人気がある理由はわかる。仕事の都合で仕方なくPC
を持ち歩く必要性があるのもわかる。転勤や海外勤務等の事情も
しかり。
けどそれは、あれほど多くの人がノートPCを「持ち歩く」理由に
はならない。何か他の理由があるのではないか。

おそらく、「これだけで全てことが足りる」という発想に安心感
や信頼感を感じているのだと思う。それが理由であると。
しかし、この発想が適切かどうかがわからないのだ。「全て○○
で」という発想は、時として、使い分けや補完しあう発想や形態
を否定する可能性がある。たしかに「大は小を兼ねる」のだが、
「帯に短し襷に長し」になっていないだろうか。
「適材適所」、聖徳太子のころからの言葉が廃れつつあるように
すら思える。
いかがでしょう。

/**メディア論、技術面からの補足**/
多くの人間がPCを「持ち歩く」状況を解決するためには、「一つ
のハードで何でもできる」でなく、「どんなハードででも、同じ
コンテンツにアクセスできる」状況が必要だ。そうならない限り、
「同一コンテンツの複数メディアへの冗長化」という現象が起き
てしまい、社会的には、流通コストや管理コストの増大を招く。
ハードウェア的には、機器とドライバの2レイヤーに機能を分割し、
バージョンアップや動作環境変化に対応するという、現行のアー
キテクチャは汎用性と特化性を両立するためにはベストソリュー
ションであり、上記の状況を解決できるレベルにある。
しかし、ソフトウェアエンジニアリングが、特定の場所にインス
トールされたアプリケーションと、それによって作られたデータ
の2重構造から抜けでない限りは不可能。
これらの制約(特にソフトウェア面)がある限りは、いくらネット
ワークが太くなっても現状の解決は期待できない。

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