9/15付けで、僕は社会人を一休みしている。明日から大学院の授業が始まる。
先行はMBA
僕はすでに物理学の修士であり、仕事は経営コンサルティングなんてものを選んで、
それなりに活躍していた。だから、周りからは「なんでいまさら?」って意見が多
かった。僕なりに考えた結果なんだけど、なかなか理解してもらえないようだ。
5年半、毎朝締め続けたネクタイを外して感じたことは、開放感とプレッシャー。社会人
でいる間は、たとえどんなに殺人的なスケジュールで、どんなに無茶なテーマでも、
「クライアントのために」っていう大義名分があったから、責任感と義務感があった。
逆に言い訳にもできた。全てが契約で成り立つ状況からの開放感を第一に感じた。
ところが、だ。これからは手を抜くのも、没頭するのも、全て自分次第。それはすごい
プレッシャーに感じる。あらゆるチャンスが与えられ、それを活かすも殺すも自分次第
っていう大学のカルチャーはとても好きだけど、明日から通う大学は、今まで僕が
知っている大学とはちょっと違う。それもプレッシャー。
さて、明日からは人生のしきり直し。
Sunday, September 24, 2000
Monday, September 11, 2000
愛国心と国粋主義
オリンピックが近づくと、毎回、考えること。
「さぁ、今回日本はいくつのメダルが...」、「さすがアメリカ、強いですねぇ」なんて
思いっきり「国家」の視点で物事を語る。
国旗と国歌を法制定するときにあれだけ騒いでおきながら、オリンピックやワールド
カップでの国旗掲揚や国歌斉唱は何とも騒がなかったりする矛盾。
僕自身は、日本が好きだし、きっとこれからも住み続けるだろう。そういう意味での
愛国心は持っている。けど、僕は護憲派でも右翼でもないので、愛国心=ナショナリズム
の図式にはのらない。ただ単に生まれ育った国が好きだというただそれだけのこと。
けど、どうもオリンピック中の日本人や代表選手、五輪選手選考委員会は国粋主義に
陥ってるように思えてしょうがない。
純日本人のチームでなんてメンタリティだから、チーム監督を外国人でなく日本人にし
ようとか、そんなことにこだわるわけだ。日本の他に、自国民だけにこだわる国って
韓国と朝鮮ぐらいじゃないかな。もちろん、他の国も、選手は自国民であるけれど、
チームメンバー、サポートスタッフ、スポンサーとなればそれこそグローバルチームで
やっている。
多国籍の中での自国の意識というか、そういう意味での国家意識を感じる。
それともう一つ。海外の代表選手って、ほぼ全員が英語を話し、会見でも通訳なしで
受け答えている。金メダリストが英語で感謝の言葉やその時の気持ちをいうからより
多くの人間が共感できる。
でも、日本人の代表選手の場合は、必ず通訳付き。そもそも英語を話せる
人っているんだろうか。それって結局、世界を見て勝負してるかどうかってことの
あらわれだと思うんだよね。
英語である必要はなく、例えば、ツール・ド・フランスを狙うならフランス語に堪能
なことが望ましいだろうし、拳法を極めたいなら中国語かも知れない。
スポーツ選手に限らず、日本しか見えていない人間が多いのは問題だと思う。そのくせ
駅前留学とか言ってるわけだから、もはやパロディだな。
言語はパワーだ。世界を相手に戦うつもりなら、せめてまず同じ土俵に立て。その前に
入り口に通してもらえるだけの最低条件を満たせ。
それができない人間は、文化だの国民性だのを持ちだして逃げる。
戦いに行くのなら戦う準備をしよう。逃げる準備じゃなくてさ。
「さぁ、今回日本はいくつのメダルが...」、「さすがアメリカ、強いですねぇ」なんて
思いっきり「国家」の視点で物事を語る。
国旗と国歌を法制定するときにあれだけ騒いでおきながら、オリンピックやワールド
カップでの国旗掲揚や国歌斉唱は何とも騒がなかったりする矛盾。
僕自身は、日本が好きだし、きっとこれからも住み続けるだろう。そういう意味での
愛国心は持っている。けど、僕は護憲派でも右翼でもないので、愛国心=ナショナリズム
の図式にはのらない。ただ単に生まれ育った国が好きだというただそれだけのこと。
けど、どうもオリンピック中の日本人や代表選手、五輪選手選考委員会は国粋主義に
陥ってるように思えてしょうがない。
純日本人のチームでなんてメンタリティだから、チーム監督を外国人でなく日本人にし
ようとか、そんなことにこだわるわけだ。日本の他に、自国民だけにこだわる国って
韓国と朝鮮ぐらいじゃないかな。もちろん、他の国も、選手は自国民であるけれど、
チームメンバー、サポートスタッフ、スポンサーとなればそれこそグローバルチームで
やっている。
多国籍の中での自国の意識というか、そういう意味での国家意識を感じる。
それともう一つ。海外の代表選手って、ほぼ全員が英語を話し、会見でも通訳なしで
受け答えている。金メダリストが英語で感謝の言葉やその時の気持ちをいうからより
多くの人間が共感できる。
でも、日本人の代表選手の場合は、必ず通訳付き。そもそも英語を話せる
人っているんだろうか。それって結局、世界を見て勝負してるかどうかってことの
あらわれだと思うんだよね。
英語である必要はなく、例えば、ツール・ド・フランスを狙うならフランス語に堪能
なことが望ましいだろうし、拳法を極めたいなら中国語かも知れない。
スポーツ選手に限らず、日本しか見えていない人間が多いのは問題だと思う。そのくせ
駅前留学とか言ってるわけだから、もはやパロディだな。
言語はパワーだ。世界を相手に戦うつもりなら、せめてまず同じ土俵に立て。その前に
入り口に通してもらえるだけの最低条件を満たせ。
それができない人間は、文化だの国民性だのを持ちだして逃げる。
戦いに行くのなら戦う準備をしよう。逃げる準備じゃなくてさ。
Friday, September 08, 2000
夢よ再びってことか?
本屋で立ち読みをしながら考えたこと。
最近の雑誌は、やたらと「上質」、「良質」、「こだわり」、「厳選」なんてキャッチコピーを使っているように思う。「IT」と同じくらい氾濫しているし薄っぺらな言葉だ。
しかも、Pen、M、Brioなんていういまだに80年代を捨てきれない雑誌が目に付く。おそらく、ターゲットの読者層は、30代前半の男性で、年収が1本の大台にのっているセグメントだろう。
一昔前の言葉で言えばヤンエグってところか。
たしかにこの年代層は、学生や新入社員のころにバブルの蜜につかり、消費癖が身に付いている。団塊ジュニア層とも重なり、最後の消費市場として注目され、各セクターや企業が必死で彼らの財布に手を伸ばしている。
マルクスは、消費の拡大が原動力の資本主義は恐慌から逃れられないことを理由に共産主義を唱えた。ケインズは政府の役割が需要を創出する立場を貫いた。今の日本では景気が悪いと言われながらも、個人消費は安定しているし、恐慌やインフレは政府が税金を持ち出して防ぐという状況で、マルキシズムでもケインジアンでも説明できない。
しかし、あいかわらず大衆社会での消費の垂れ流しは続いている。「えぇじゃないか」とか「大正ロマン」とかそのころの心理に近いんじゃないかな。
そうそう、もう一つ気になることが。
20~30年周期で流行はくりかえされるけど、最近のファッションは70~80年代への回帰だ。たしか、80年代の初頭、吉本隆明氏がコム・デ・ギャルソンを着てファッション誌に載った。そのころの繰り返しが今まさに起きつつあって、10代の女性の間でニュートラがリバイバルしている。丸ノ内OLの間では、ベージュ、濃紺が復活してきた。
あのころ、ニュートラの次に流行った物って、ワンレン・ボディコンだったなぁ。勘弁してよ、もう。
最近の雑誌は、やたらと「上質」、「良質」、「こだわり」、「厳選」なんてキャッチコピーを使っているように思う。「IT」と同じくらい氾濫しているし薄っぺらな言葉だ。
しかも、Pen、M、Brioなんていういまだに80年代を捨てきれない雑誌が目に付く。おそらく、ターゲットの読者層は、30代前半の男性で、年収が1本の大台にのっているセグメントだろう。
一昔前の言葉で言えばヤンエグってところか。
たしかにこの年代層は、学生や新入社員のころにバブルの蜜につかり、消費癖が身に付いている。団塊ジュニア層とも重なり、最後の消費市場として注目され、各セクターや企業が必死で彼らの財布に手を伸ばしている。
マルクスは、消費の拡大が原動力の資本主義は恐慌から逃れられないことを理由に共産主義を唱えた。ケインズは政府の役割が需要を創出する立場を貫いた。今の日本では景気が悪いと言われながらも、個人消費は安定しているし、恐慌やインフレは政府が税金を持ち出して防ぐという状況で、マルキシズムでもケインジアンでも説明できない。
しかし、あいかわらず大衆社会での消費の垂れ流しは続いている。「えぇじゃないか」とか「大正ロマン」とかそのころの心理に近いんじゃないかな。
そうそう、もう一つ気になることが。
20~30年周期で流行はくりかえされるけど、最近のファッションは70~80年代への回帰だ。たしか、80年代の初頭、吉本隆明氏がコム・デ・ギャルソンを着てファッション誌に載った。そのころの繰り返しが今まさに起きつつあって、10代の女性の間でニュートラがリバイバルしている。丸ノ内OLの間では、ベージュ、濃紺が復活してきた。
あのころ、ニュートラの次に流行った物って、ワンレン・ボディコンだったなぁ。勘弁してよ、もう。
Thursday, September 07, 2000
単価値的思考
飛行機の窓から外を眺めていると、とんでもない山奥やだだっぴろい平野に忽然と街や集落
を見かけることがあるじゃない。そういうとき、僕はいつも、「どうやって生活してるんだ
ろ」とか「仕事とか学校ってどういてるのかな」なんてことを思ってしまう。
特に海外の砂漠のような景色の中にある街のことなんて、まったく生活が想像できない。
日本であれば、生活様式にそうそう大差はないはずで、同じようなものを食べて、同じ
テレビを見ている。それなのに、「よくこんな環境で」なんて思ってしまう。
結局、僕は自分が生まれ育った環境や習慣でしか物事を考えられなのではないだろうか。
それはそれでとても貧しい思考であり、ある種の差別意識が根底にあるのかもしれない。日本
では東京や大阪といった大都市があらゆるムーブメントの中心で、周辺地域はプチ東京だった
り、プチ大阪になりがちだ。
もっとも、東京はプチニューヨークかもしれないし、シドニーはプチロンドンかもしれない。
中心と周辺があるのは当たり前で、そこの差が地域性に現れるんだろうけど、中心の発想しか
もてない自分はちょっと貧しいし、傲慢ですらある。
三宅島からの緊急避難民の写真が新聞に掲載されたとき、避難民の人が東急ハンズの紙袋を
持っている姿が写されていた。
僕は「なんで三宅島で東急ハンズ?」と思ってしまったわけだ。三宅島にハンズがなくっても、
東京にでかけた時によったのかもしれないし、本州に住む親戚や知人からの宅急便に入ってい
たのかもしれない。三宅島にハンズの紙袋が上陸するルートなんてたくさんあるのに、その
写真をとても奇妙なものに感じてしまった。
ジプシーがロレックスをはめ、アボリジニがUCLAのロゴが入ったTシャツを着る時代、なのに
紋切り型の記号論的な解釈しかできない自分は、やばい。
を見かけることがあるじゃない。そういうとき、僕はいつも、「どうやって生活してるんだ
ろ」とか「仕事とか学校ってどういてるのかな」なんてことを思ってしまう。
特に海外の砂漠のような景色の中にある街のことなんて、まったく生活が想像できない。
日本であれば、生活様式にそうそう大差はないはずで、同じようなものを食べて、同じ
テレビを見ている。それなのに、「よくこんな環境で」なんて思ってしまう。
結局、僕は自分が生まれ育った環境や習慣でしか物事を考えられなのではないだろうか。
それはそれでとても貧しい思考であり、ある種の差別意識が根底にあるのかもしれない。日本
では東京や大阪といった大都市があらゆるムーブメントの中心で、周辺地域はプチ東京だった
り、プチ大阪になりがちだ。
もっとも、東京はプチニューヨークかもしれないし、シドニーはプチロンドンかもしれない。
中心と周辺があるのは当たり前で、そこの差が地域性に現れるんだろうけど、中心の発想しか
もてない自分はちょっと貧しいし、傲慢ですらある。
三宅島からの緊急避難民の写真が新聞に掲載されたとき、避難民の人が東急ハンズの紙袋を
持っている姿が写されていた。
僕は「なんで三宅島で東急ハンズ?」と思ってしまったわけだ。三宅島にハンズがなくっても、
東京にでかけた時によったのかもしれないし、本州に住む親戚や知人からの宅急便に入ってい
たのかもしれない。三宅島にハンズの紙袋が上陸するルートなんてたくさんあるのに、その
写真をとても奇妙なものに感じてしまった。
ジプシーがロレックスをはめ、アボリジニがUCLAのロゴが入ったTシャツを着る時代、なのに
紋切り型の記号論的な解釈しかできない自分は、やばい。
Wednesday, September 06, 2000
短絡的思考
何気ないことなんだけど、この間、新鮮な驚きを感じたこがあって...。
この夏は、東京湾近くの運河沿いのオフィスにいた。モノレールと首都高がその運河と併走
しているんだけど、ある日、水位が下がって、運河の中に造られた橋桁がむきだしになって
いた。「水門でもあって流量調整してるのかな」とかもっともらしいことを考えたんだが、
なんのことはない、東京湾の潮の干満が運河の水位を変えているだけのことじゃないか。
当たり前のことなのに、このことにすごく驚いてしまった。
ちなみに、建物の窓から見下ろす運河の中に、魚の泳ぐ姿を見かけたときも驚いた。その時は
魚の生命力に驚いた。東京湾が魚が住める程度の水質を保っているのか、あるいは強靱な魚
なのか、どっちだろう。
当たり前のことに驚いたり感動するようになった僕は、いまだに無邪気なのか、あるいは殺伐
とした毎日を過ごしているのか、むむぅ、微妙だ。
この夏は、東京湾近くの運河沿いのオフィスにいた。モノレールと首都高がその運河と併走
しているんだけど、ある日、水位が下がって、運河の中に造られた橋桁がむきだしになって
いた。「水門でもあって流量調整してるのかな」とかもっともらしいことを考えたんだが、
なんのことはない、東京湾の潮の干満が運河の水位を変えているだけのことじゃないか。
当たり前のことなのに、このことにすごく驚いてしまった。
ちなみに、建物の窓から見下ろす運河の中に、魚の泳ぐ姿を見かけたときも驚いた。その時は
魚の生命力に驚いた。東京湾が魚が住める程度の水質を保っているのか、あるいは強靱な魚
なのか、どっちだろう。
当たり前のことに驚いたり感動するようになった僕は、いまだに無邪気なのか、あるいは殺伐
とした毎日を過ごしているのか、むむぅ、微妙だ。
Tuesday, August 15, 2000
lomo
lomoについて書く。リンクに「Photos」っていうコーナーがあるけれど、これはlomoってい
うロシア製のカメラで撮った写真。中には「モロ写真」と読み違えて、あらぬ期待をする人も
いるようだけど、それは間違い。
ちょうど去年の今頃、僕はlomoを手にした。別に写真が好きとか、そんな思い入れはなかった
んだけど、その思想というか、ムーブメントに惚れ込んでしまった。
世界各国にユーザーグループがいて、「ウォール」なんていう独特の展示をベースにイベント
をしたり、一度は製造中止の憂き目にあいながらもユーザーの支持で製造が復活したり...。
そんなことよりも、ロモユーザー(lomographerともいう)がいつも片手に、鞄の中にlomoを
入れている姿が印象的だ。
携帯電話やノートPCを「携帯メディア」なんて表現することがばからしく思えてしまう。
メディアの本質は記録することであり、伝達ではない。伝達は記録や保存の後工程に過ぎない。
そういう意味でもカメラはメディアの役割を全うしている。
80年代後半から90年代前半のMacintoshのムーブメントに似た雰囲気にも惹かれるのかもしれ
ない。ユーザー主導、愛着、アナログ感、そんなキーワードはMacに似ている。
lomoもそこそこ人気がでてきて、雑誌、新聞、テレビの各メディアへの露出度も高くなった。
規模が拡大すると、ムーブメントのベクトルが発散し、勘違いした連中が増えるのも否めない
のだが、いまのところその心配は杞憂に終わっている。
ただ、危惧すべきは、似非lomoの登場ではないか。他のカメラメーカーがこの市場に乗り込
んできた時が心配でしょうがない。
Win95がMacに対して実行したマーケ手法が繰り返されることだけは我慢ならない。
そして今日も手のひらサイズのlomoを持ち歩いている
そうそう、女優ののT.Tさんもlomoを持っているらしい
うロシア製のカメラで撮った写真。中には「モロ写真」と読み違えて、あらぬ期待をする人も
いるようだけど、それは間違い。
ちょうど去年の今頃、僕はlomoを手にした。別に写真が好きとか、そんな思い入れはなかった
んだけど、その思想というか、ムーブメントに惚れ込んでしまった。
世界各国にユーザーグループがいて、「ウォール」なんていう独特の展示をベースにイベント
をしたり、一度は製造中止の憂き目にあいながらもユーザーの支持で製造が復活したり...。
そんなことよりも、ロモユーザー(lomographerともいう)がいつも片手に、鞄の中にlomoを
入れている姿が印象的だ。
携帯電話やノートPCを「携帯メディア」なんて表現することがばからしく思えてしまう。
メディアの本質は記録することであり、伝達ではない。伝達は記録や保存の後工程に過ぎない。
そういう意味でもカメラはメディアの役割を全うしている。
80年代後半から90年代前半のMacintoshのムーブメントに似た雰囲気にも惹かれるのかもしれ
ない。ユーザー主導、愛着、アナログ感、そんなキーワードはMacに似ている。
lomoもそこそこ人気がでてきて、雑誌、新聞、テレビの各メディアへの露出度も高くなった。
規模が拡大すると、ムーブメントのベクトルが発散し、勘違いした連中が増えるのも否めない
のだが、いまのところその心配は杞憂に終わっている。
ただ、危惧すべきは、似非lomoの登場ではないか。他のカメラメーカーがこの市場に乗り込
んできた時が心配でしょうがない。
Win95がMacに対して実行したマーケ手法が繰り返されることだけは我慢ならない。
そして今日も手のひらサイズのlomoを持ち歩いている
そうそう、女優ののT.Tさんもlomoを持っているらしい
Sunday, August 06, 2000
ずっと前から
縄文時代の高度な文明が見直されたり、与那国島沖の海中に古代文明の遺跡と思われる石造り
の物体が発見されたり、いわゆる四大文明より古い文明が脚光を浴びている。
考古学者の多くは、四大文明より以前に文明が存在した可能性は認めつつも、遺跡や証拠が得
られない限りは否定する立場をとっている。まぁ、考古学で飯を食っている人にとっては死活
問題なわけで、慎重にもなるわけだ。
僕も考古学は好きだ。天体運動とか、遺跡とか、ロマンを感じるし、中学生のころエジプト、
ローマ、ギリシャに行ったときは感動した。
縄文人は海洋民族で太平洋を自由に行き来していた、なんて説も本当であってほしい。ハン
コックの神々の指紋にも読みふけった。
僕の知る限り、あらゆる国家、民族、文明に共通することがあって、それは踊りと歌。この2
つが存在しない集合体は見あたらない。
何で人は踊るのか、なぜ歌うのか。雨乞いから収穫の喜び、死、生、別れ、出会い、何につけ
ても踊り、歌う。
人が歌うときや踊るときの脳波の変化とか分泌物資の成分とか、そんなものから科学的な根拠
が見いだせるかもしれないけれど、そもそもそれらの生理現象がなぜ起きるのかの説明には
ならず、根本的な解決ではないわけで...。
僕なりの回答は、人間がもっとも頻繁に使うメディアである言葉と文字、この2つが意外に
表現力の乏しい手段なのではないかということ。
乏しいが故に補完剤や触媒を求め、それが身振り手振り、抑揚につながるのではと思う。
ロゴスよりパトスであって、パロールになるのではないかと思っている。
インターネットが急激に広まって、電子メディアが蔓延すると読み書きの能力が低下するな
んて危惧もあったけれど、その危惧は杞憂に終わり、電子メールや掲示板に代表されるように
膨大な量の読み書きが発生している。
今僕が危惧していることは、表現力の乏しい文字と言葉に重きが置かれ、表現しながら相手に
伝えることができる人が少なくなっているのではないかということ。
魅力的な人が知り合いにいますか?自分をありのままに表現できていますか?
文字にたよって、読み手の解釈に任せていませんか?
言葉に頼って後から「それは誤解だよ」なんて言い訳をしていませんか?
の物体が発見されたり、いわゆる四大文明より古い文明が脚光を浴びている。
考古学者の多くは、四大文明より以前に文明が存在した可能性は認めつつも、遺跡や証拠が得
られない限りは否定する立場をとっている。まぁ、考古学で飯を食っている人にとっては死活
問題なわけで、慎重にもなるわけだ。
僕も考古学は好きだ。天体運動とか、遺跡とか、ロマンを感じるし、中学生のころエジプト、
ローマ、ギリシャに行ったときは感動した。
縄文人は海洋民族で太平洋を自由に行き来していた、なんて説も本当であってほしい。ハン
コックの神々の指紋にも読みふけった。
僕の知る限り、あらゆる国家、民族、文明に共通することがあって、それは踊りと歌。この2
つが存在しない集合体は見あたらない。
何で人は踊るのか、なぜ歌うのか。雨乞いから収穫の喜び、死、生、別れ、出会い、何につけ
ても踊り、歌う。
人が歌うときや踊るときの脳波の変化とか分泌物資の成分とか、そんなものから科学的な根拠
が見いだせるかもしれないけれど、そもそもそれらの生理現象がなぜ起きるのかの説明には
ならず、根本的な解決ではないわけで...。
僕なりの回答は、人間がもっとも頻繁に使うメディアである言葉と文字、この2つが意外に
表現力の乏しい手段なのではないかということ。
乏しいが故に補完剤や触媒を求め、それが身振り手振り、抑揚につながるのではと思う。
ロゴスよりパトスであって、パロールになるのではないかと思っている。
インターネットが急激に広まって、電子メディアが蔓延すると読み書きの能力が低下するな
んて危惧もあったけれど、その危惧は杞憂に終わり、電子メールや掲示板に代表されるように
膨大な量の読み書きが発生している。
今僕が危惧していることは、表現力の乏しい文字と言葉に重きが置かれ、表現しながら相手に
伝えることができる人が少なくなっているのではないかということ。
魅力的な人が知り合いにいますか?自分をありのままに表現できていますか?
文字にたよって、読み手の解釈に任せていませんか?
言葉に頼って後から「それは誤解だよ」なんて言い訳をしていませんか?
Subscribe to:
Posts (Atom)
